2012年8月25日土曜日
地域と美術館 その2
ここ数年、瀬戸内を舞台にしてのアートイベントが話題となりました。ある程度のエリア、広さを持った地域の回遊型、参加体験ツアーの様相です。
参加したそれぞれの方々、感想を聞くと、<瀬戸内><島><船に乗る>という<非日常体験>を真っ先に仰る方が多かった様に思います。もちろんこれらは、日常的に瀬戸内海に接していない方々、都会の方々メインの話ではあるのですが、それでも地元の中にも同様の感想をお持ちの方は多かったように思います。
※画像はアゲハ、収穫の終わったミニトマトにとまっていました。
先日、塩飽諸島(香川県側)で東京の美大生、長期滞在体験制作という話を聞きました。
ちょっと興味を持ったので、調べてみました。
四国新聞社 記事 塩飽諸島で芸術家育成/東京の美大生受け入れ
この夏、本島、広島(※県名ではありません)、手島といった島に大勢来ていたのだそうです。地図を表示してみればわかる通り、瀬戸大橋のすぐ西、岡山県側の倉敷、水島が間近なエリアです。
このあたりの夕日、島影、海。子供時代に訪れたこともあり、その当時の体験が蘇ってきました。アートは別にしても?ふたたび行ってみたいと思わせる何かがあるのです。
今回の企画自体、アートイベントとしてそのもの自体がメインというよりも、記事中に書かれた<<過疎化、高齢化が進む島の活性化や市の文化振興にもつなげる。>>といったあたりが主役の様に思います。
「瀬戸内国際芸術祭」での人の回遊、動き、感想>>>>都会の人々と地域を結ぶ地道な作業の始りのように感じられました。
一般的に、どうしても便利な都会へ、仕事のある都会へといった動きが強くなってしまいます。また通う大学の所在がその後の生活の場を決定づけることもあると思います。
若いときの体験、大学生活の時間、直ぐには結果は出ないかもわかりませんが、地方の良い所、「心を繋ぐもの」との出会いを作る作業が問われている様に思うのです。もちろん地方に育つ中で幸運にそのことに気付ける場合もあるでしょうが、だからこそそこで暮らす大人の役割も大きいと思うのです。もちろん行政の役割も。
魅力ある地域の記憶を作る装置としての施設
都会の人が誉めてくれる?認めてくれる、魅力を感じる自然であったり、
美術館、博物館、それもその地域ならではの関係性を誇れる様なストーリーを暮らす人間が共有出来る仕掛けをもった運営なんてことを思います。
そういう意味で?
自然、立地環境を「競争力」に転換するようなアイデアの中には、
厳しい世の中ではあるけれど、長いスパンでの取り組みが欠かせないな〜と思ったのでした。
地域と美術館
奈義町現代美術館に行って来ました。
県北方向に向かうには少しだけ決意?が必要です。
めぼしい所(私が行きたいと思う様な所)が距離的に遠く分散しており、他の施設、場所を掛け持ちで廻るということがなかなかできないため、結果的に一カ所だけを目指して、もしくはむりやりまとめての行動となるからです。
「それで何が悪い?そんな事に決意がいるの?」と言われてしまうと、お恥ずかしい限り、こうして山で自分のペースで暮らそうとしていても、やはりどこかで時間に囚われて暮らしているんですね。
一日かけてでも行こうというモチベーション
もちろん企画の良さ
そして美術館の立地ということもあります
<遠いけれど行ってもよいかな>と、
思わせる地域風土、そしていつも変わらぬ常設展示というのもあるように思うのです
それは美術館自体の姿というのも含まれるような気がします
懐かしい何かに出会える
変わらぬ存在がある
倉敷の大原美術館にもそんなところが大きくあるように思います
国立、県立、市立、町立
税金によって運営されているこうした施設(美術館、博物館、文学館、、)に対して
いろいろと厳しい話を聞く事が多くなりました
企画内容の善し悪しというのは、専門家、関係者、趣味のある人?には直接に響くように思いますが、これも美術のありかた多様性を広げようとして来た結果、それ自体は望ましい事にしろ、評価する対象、テーマとの関係性が制作者・鑑賞者間で分散してしまい、たとえ関係者間といえど全てに対して積極的な支援というのが難しくなったようにも思います。勢い、<なんとなくの気分?で応援>といった微妙なニュアンスにもなったり。
ましてや運営を評価する立場の行政機構、また納税者、一般の方々の評価となると、たちまち<誰にでもわかる客観性>といったものを要求され、
<<入館者数>><<利用者数>>、、
といった具体的数字が一人歩きしたりするんでしょう
これまで影響力のある応援者の存在でうまく行っていた、、、という過去形もあったりするかもわかりません。たしかに新たな応援者、理解者を増やすといっても急には難しいのも確か。長いスパンでは義務教育の中での扱われかたも問われます。
確かに世の中の景気が悪くなり、余裕が無くなって来た社会ではより広い範囲での理解が求められる、、、、当然のことなのでしょう。
一方、アートを手がかりに地域興しという話も多く聞く様になって来ました。
ディスカバージャパンという昔キャッチコピーがありましたが、今日的な取り組みと理解者を増やす作業、、、、。 続きます、、。
県北方向に向かうには少しだけ決意?が必要です。
めぼしい所(私が行きたいと思う様な所)が距離的に遠く分散しており、他の施設、場所を掛け持ちで廻るということがなかなかできないため、結果的に一カ所だけを目指して、もしくはむりやりまとめての行動となるからです。
「それで何が悪い?そんな事に決意がいるの?」と言われてしまうと、お恥ずかしい限り、こうして山で自分のペースで暮らそうとしていても、やはりどこかで時間に囚われて暮らしているんですね。
一日かけてでも行こうというモチベーション
もちろん企画の良さ
そして美術館の立地ということもあります
<遠いけれど行ってもよいかな>と、
思わせる地域風土、そしていつも変わらぬ常設展示というのもあるように思うのです
それは美術館自体の姿というのも含まれるような気がします
懐かしい何かに出会える
変わらぬ存在がある
倉敷の大原美術館にもそんなところが大きくあるように思います
国立、県立、市立、町立
税金によって運営されているこうした施設(美術館、博物館、文学館、、)に対して
いろいろと厳しい話を聞く事が多くなりました
企画内容の善し悪しというのは、専門家、関係者、趣味のある人?には直接に響くように思いますが、これも美術のありかた多様性を広げようとして来た結果、それ自体は望ましい事にしろ、評価する対象、テーマとの関係性が制作者・鑑賞者間で分散してしまい、たとえ関係者間といえど全てに対して積極的な支援というのが難しくなったようにも思います。勢い、<なんとなくの気分?で応援>といった微妙なニュアンスにもなったり。
ましてや運営を評価する立場の行政機構、また納税者、一般の方々の評価となると、たちまち<誰にでもわかる客観性>といったものを要求され、
<<入館者数>><<利用者数>>、、
といった具体的数字が一人歩きしたりするんでしょう
これまで影響力のある応援者の存在でうまく行っていた、、、という過去形もあったりするかもわかりません。たしかに新たな応援者、理解者を増やすといっても急には難しいのも確か。長いスパンでは義務教育の中での扱われかたも問われます。
確かに世の中の景気が悪くなり、余裕が無くなって来た社会ではより広い範囲での理解が求められる、、、、当然のことなのでしょう。
一方、アートを手がかりに地域興しという話も多く聞く様になって来ました。
ディスカバージャパンという昔キャッチコピーがありましたが、今日的な取り組みと理解者を増やす作業、、、、。 続きます、、。
2012年8月21日火曜日
2012年8月17日金曜日
心を変える
何かを感じる
楽しかったり、寂しかったり、好きだったり、嫌いだったり
ひとそれぞれとはいうものの
育った国の自然風土、言葉、社会
確かなものではないかもわからないけれど、関わることによっては
朧げな何かによる時代を超えた幸運な連なりを感じることもあったりします
「美術を学ぶ人へ」という佐藤忠良さんの文章を読みました。
「感じる事」と「知識」、「芸術」と「科学技術」
引用(部分)> この芸術というものは、科学技術とちがって、環境を変えることはできないものです。
しかし、その環境に対する心を変えることはできるのです。詩や絵に感動した心は、環境にふりまわされるのではなく、自主的に環境に対面できるようになるのです。<引用終わり>
この言い回し、言葉の使い方、読んでいいな〜と素直に思いました。
さて、写真の世界。
カメラもデジカメとなりました。いろいろなユーザーアシスト機能も付加されたカメラが低価格で販売されています。昔、シャッターを押すのをためらった、貧乏性。フィルム代、現像代とか、大判のプリントなんてものも家でプリントアウト出来る様になって、試行錯誤のコストも下がり、ずいぶん敷居も低くなったように思います。
「無駄をしたくないという思い」からの解放
構図とか諧調の善し悪しなどにこだわりの無い画像。いわゆる古典的な価値観に囚われない画像をネットではいくらでも目にします。それ自体をどうこう言う気はありません。表現なんて片意地はらないすでに日常としてのカメラ、画像。
少々ぶれていようが、構図が悪かろうが、狙ったモノ、存在、生き生きとした表情、瞬間。
視線の先にあるもの
カメラの液晶を覗く自分との関係
たくさんの画像、「写ってしまったもの」から「選ぶ」ということ
この選ぶってことがどういう事なのか
何も知らない、、、という事もあれば、
定型を知っているからこその型破りもあれば、あえての定型もありますね。
もちろん狙って狙っての定番もある訳です
「学ぶ」という事がどのように働くのか
他の人の事、やり方を知り、それを受け入れて、それでもなお、、、、と
「私」を確認させてくれるのも「他の人」がいてくれるからこそ
楽しかったり、寂しかったり、好きだったり、嫌いだったり
ひとそれぞれとはいうものの
育った国の自然風土、言葉、社会
確かなものではないかもわからないけれど、関わることによっては
朧げな何かによる時代を超えた幸運な連なりを感じることもあったりします
「美術を学ぶ人へ」という佐藤忠良さんの文章を読みました。
「感じる事」と「知識」、「芸術」と「科学技術」
引用(部分)> この芸術というものは、科学技術とちがって、環境を変えることはできないものです。
しかし、その環境に対する心を変えることはできるのです。詩や絵に感動した心は、環境にふりまわされるのではなく、自主的に環境に対面できるようになるのです。<引用終わり>
この言い回し、言葉の使い方、読んでいいな〜と素直に思いました。
さて、写真の世界。
カメラもデジカメとなりました。いろいろなユーザーアシスト機能も付加されたカメラが低価格で販売されています。昔、シャッターを押すのをためらった、貧乏性。フィルム代、現像代とか、大判のプリントなんてものも家でプリントアウト出来る様になって、試行錯誤のコストも下がり、ずいぶん敷居も低くなったように思います。
「無駄をしたくないという思い」からの解放
構図とか諧調の善し悪しなどにこだわりの無い画像。いわゆる古典的な価値観に囚われない画像をネットではいくらでも目にします。それ自体をどうこう言う気はありません。表現なんて片意地はらないすでに日常としてのカメラ、画像。
少々ぶれていようが、構図が悪かろうが、狙ったモノ、存在、生き生きとした表情、瞬間。
視線の先にあるもの
カメラの液晶を覗く自分との関係
たくさんの画像、「写ってしまったもの」から「選ぶ」ということ
この選ぶってことがどういう事なのか
何も知らない、、、という事もあれば、
定型を知っているからこその型破りもあれば、あえての定型もありますね。
もちろん狙って狙っての定番もある訳です
「学ぶ」という事がどのように働くのか
他の人の事、やり方を知り、それを受け入れて、それでもなお、、、、と
「私」を確認させてくれるのも「他の人」がいてくれるからこそ
溢れ出る個性を全面に
吉備高原の自然を紹介するこのブログ
基本的には画像中心ですが、
たまに、気になった本、事、考えなどについても書いてみたり
どこか気にはなっているのだけれど
なかなか自分の中でまとまらずのあれこれ、今日はそんな事について
※画像は今年から通う様になった道すがら、高梁川の堰堤の道風景。
夕立の後の様子。正面は高梁、吉備高原の山々。
「溢れ出る個性を前面に」
激情に突き動かされてのあれこれ、否応の無い表現活動
芸術家と聞いてイメージされる姿はそんな感じ?
私も昔そんな風に思っていました。
しかし、歳を重ねるたび、色々な事に触れる事によって、そう単純な話ではないと思う様になりました。
もっとも、いまだに「芸術家」ってなんなの?と聞かれても、なかなかそれらしい答えがみつからず、答えにしどろもどろする自分がいるのですが。
※画像は私が子供時代を過ごしたあたり、川の様に見えるのは瀬戸内海、
遠方に見えるのは四国、香川県です。
顔を見たり、姿を見たり
声を聞いたり、触ったり
似た人というのもいるにはいるでしょうが、名前は知らないまでもそれぞれ違う「個」である事は、多くの人がお互い識別出来る様に思います。
何もしなくても、個性的。
何かをするから個性的でない姿があらわになるのかもわかりません。
そもそも一般的に「個性的」と言われて来たのは
何らかの「ルール」が存在するフィールドで、他とは突出して違う何かを醸し出している状態をさしていたのではないでしょうか。
わかりやすい人との違いを新たに生み出すこと
それは新しい「ルール」を見つけ出すこと、作り出す事なのかもわかりません
※画像は高梁川に架かる橋、夕日の様子
基本的には画像中心ですが、
たまに、気になった本、事、考えなどについても書いてみたり
どこか気にはなっているのだけれど
なかなか自分の中でまとまらずのあれこれ、今日はそんな事について
※画像は今年から通う様になった道すがら、高梁川の堰堤の道風景。
夕立の後の様子。正面は高梁、吉備高原の山々。
「溢れ出る個性を前面に」
激情に突き動かされてのあれこれ、否応の無い表現活動
芸術家と聞いてイメージされる姿はそんな感じ?
私も昔そんな風に思っていました。
しかし、歳を重ねるたび、色々な事に触れる事によって、そう単純な話ではないと思う様になりました。
もっとも、いまだに「芸術家」ってなんなの?と聞かれても、なかなかそれらしい答えがみつからず、答えにしどろもどろする自分がいるのですが。
※画像は私が子供時代を過ごしたあたり、川の様に見えるのは瀬戸内海、
遠方に見えるのは四国、香川県です。
顔を見たり、姿を見たり
声を聞いたり、触ったり
似た人というのもいるにはいるでしょうが、名前は知らないまでもそれぞれ違う「個」である事は、多くの人がお互い識別出来る様に思います。
何もしなくても、個性的。
何かをするから個性的でない姿があらわになるのかもわかりません。
そもそも一般的に「個性的」と言われて来たのは
何らかの「ルール」が存在するフィールドで、他とは突出して違う何かを醸し出している状態をさしていたのではないでしょうか。
わかりやすい人との違いを新たに生み出すこと
それは新しい「ルール」を見つけ出すこと、作り出す事なのかもわかりません
※画像は高梁川に架かる橋、夕日の様子
2012年8月10日金曜日
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