2013年3月29日金曜日

春 後楽園


春 後楽園
昨日までの冷え込みが嘘の様な
暖かな一日


満開の桜とはいかなかったけれど
暖かな日差しに
ピンクのアクセント

岡山城の金の鯱の輝き


苔の緑も生き生きと


深い緑に映える桜


備前焼の鶏 池の上

白に赤


椿花を見ての弁当


竹の季節

椿


後楽園に出かけて来ました
昨日までの肌寒さと打って変わっての日差し、暖かさでしたが、
桜はまだ三分咲きでした


鶴舎には細かいネットが張られ
写真撮影が難しくなっていました

椿が盛り
いたるところに咲いています


石の上、苔の上
落ちた椿がアクセント

2013年3月23日土曜日

伝える事


昨年、不思議な縁から始まった「膠作り実験」、
年があけ、準備を続けていたワークショップも無事行う事が出来ました。

ここのところの急な暖かさ、気温の上昇もあって
今シーズンの実験も終了です

上記の画像は、準備実験過程で出来たそれぞれを一部残したサンプルです

ワークショップ本番のおり作ったものは、現在全量倉敷芸術科学大学と吉備国際大学にあります


思えばいろんな事がありました

行きがかり上開く事になったワークショップも
津山横野和紙の上田さんがおいでくださり、思う以上の広がりが出ました

もちろん本体?の膠作りにもたくさんの方々が参加くださり
手作りの会のわりに大きな集まりとなったように思います

参加くださった方々、運営他助けていただいた方々、感謝するばかりです。
私自身、教えられる事ばかりでした。



ふと庭に目を移せばアセビの花が満開になっていました
水仙も次から次に咲いて満開です
サクランボの花も満開です。

椿の花が見られるようになりました
いつもに比べてすこし遅い開花です

シュンランの蕾が地面から顔を覗かせています
ユスラウメが硬い枝に淡い緑の花芽を見せ始めています




僕たちは
島で、
未来を
見ることに
した

株式会社 巡りの環 著

読後感のさわやかな本でした。

「巡りの環」という会社名は、何故だか怪しくも感じました^^が、
二人の若さをうらやましく感じました

攻める気持ちで田舎に向かう
自分に出来る役割を考える

「伝える事」

途中の一人



現在、描いている絵の一部
さて、、。

2013年3月18日月曜日

ほころぶ


さくらんぼの花がほころびはじめました
年老いた木 弱った樹勢
昔の様にたくさんの花はつけませんが、ことしも花を着けてくれました



ひざしの下
こころなしか若返ったように感じる姿です
 

水仙の花が次から次に咲いています

2013年3月13日水曜日

ひととき


次第に暖かくなり、時に暑く感じる日中もありますが、
こちらは朝夕、もちろん夜もまだまだ寒い高原です

散歩のおりに目に留まる風景、植物
硬い枝の先に膨らむ蕾


デッキテーブルの上
黄色い汚れが残る様になりました

夕日がことのほか大きく見える季節


何日か前
空気が澄んでいるのでしょう
放射状の光が印象的なひとときでした

水仙のかおり


やっと水仙が咲き始めました
日当りのよい斜面では、咲いている椿もあるようですが、
我が家の椿はまだまだ硬い蕾です



今、こちらで満開のロウバイは、今年、花着きが悪く
また開花も凄く遅かったです

同じく黄色いアテツマンサクも咲いています


ほのかな香り  詠う姿

2013年3月3日日曜日

靴の修理屋


都会で靴の修理屋さんが流行っているという記事をネットニュースで読みました。
靴に限らず、「修理して使う」、良いモノを長く使うのがトレンドになりそうなのだとか。


昔は、皆そうでした

ここで言う「昔」がどの程度昔なのかについて今時は一筋縄でいかないこの世の中。
もちろん、この「皆」もくせ者です。

一時は、消費が美徳とどんどん新しいモノに、まだまだ使えるモノでもリプレース。
そんな頃もありました。
「畳となんとかは新しい方がよい」なんて、言葉もありましたっけ。


パソコンの黎明期、パソコンをそのものがもつ機能で評価するのか、
それとも物質、存在するモノとして評価するのか、

「古いそれ」を使い続ける事が「苦」につながるなんて話になったこともありました。
1年で処理速度が倍々になり、目に見えて出来る事が変わって行く時代でした。
新しいモノの方が目に見えて処理速度があり、一般的に使いやすく、作業上のストレスを抱えなくてよくなったのです。確かに、一般化されるが故のインターフェース上の不便も出て来ました。古いインターフェースの持つ柔軟性の存在。しかし、こちらは特別なユーザーに求められ、新しいハードでそれを提供するOSなんていうのがまたあったりします。


ただし現在では、古いモノ、今使っているモノで充分と満足される方も多くなったと思われますが、今度は、壊れてもいないのに使い続ける事が出来なくなったのです。

パソコンを通して「繋がるサービス」を受け続ける為には、要件を満たす新しいそれに変えて行かねばならなくなったのです


カメラも急激に変化した存在の一つでしょう。
フィルムカメラからデジタルカメラ、ちょっとした事だったら現在なら携帯電話、スマートフォンに付いているカメラで充分になりました。

金属で出来た重いスチルカメラ
モノとしての存在感 
道具として使う為に必要なフィルム、現像・焼き付けまで含めたシステム自体が一般の消費の世界から消えて行こうとしています。

いわゆる昔ながらの写真を撮る為の道具から、こちらもまた写真を媒介にしてある種のサービスと繋がることを想定した使いやすさが求められ、使う人間と道具との関係が再構築されて来た様に思います。


Webに求められる機能もしかり。



家、良い家具を何代にも渡って修理しながら使う。
良い靴を修理しながら使う

この身体と付合って行く
人間と付合って行く



生まれた土地、地域、自然
田舎と呼ばれる様な場所

愛着と呼ばれるような「何か」の存在


二人の青年が出身地でもない過疎に苦しむような地域に移り住み、仕事を生み出し、生活し続けられる事を実証する話。
地方、過疎といった言葉は、そのままグローバルに対するローカル、人口減少社会・国家とも置き換えられるようにも思います。ある意味でこの国の「未来の姿」をみるのです。それを認めた上での「持続可能な社会モデル」の実現、実際にそのモデルを作って行く試みを紹介する本があると新聞の書評欄で知りました。


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また、「文化消費」という言葉が目に留まりました。


私の頭の中ではこれら諸々、
私の関係する絵の世界でも価値観を修理して持続可能な形に戻す事が求められているのではないか、、、、そんな事を、ふと思っているのです。