からだの文化
先日、「からだの文化をめぐって」という新聞記事(山陽新聞2010年8月30日文化欄)が眼にとまりました。
学習院大学で「からだの文化-修行と身体像-」という研究発表とワークショップがあったという話を夏目房之介氏が紹介した記事なのですが、行われた演題が
「マンガにおける修行イメージの伝承」夏目房之介さん(戦前から戦後にかけての武道修行表現の変化)
「仏教の修行マニュアルに見る「身体」イメージ」師茂樹さん(仏教の実践的手引き「天台止観」を中心にして身体内部を含む修行身体像)
「日本近代のピアノ教育における身体イメージの剛と柔」大地宏子さん(欧州では19世紀に末に否定された練習法が日本では最近まで墨守され、テレビドラマに見る「大リーグボール養成ギプス」的なレッスン場面なども紹介しての過酷なピアノレッスンのイメージ伝承)
「歩く丹田の系譜」野村英登さん(道教、武道、最近のダイエット法にまでわたる「丹田」を巡る伝承)などなど、、、演題を見ただけでも期待できそうです。
ここのところ身体に関する話は、近代とセットで語られる事が多くなったように思います。
記憶はおぼろですが、一般的な日本人は明治になるまでまともに走る事も出来なかったとか、また、リズムに合わせて行進することも出来なかったと読んだ事があります。教育、訓練によって「出来る様になった」のです。
近代化とともに身体、動きが組み替えられた。
美術教育では、西洋から近代を取り入れ学ぶのに毛筆と鉛筆、どちらを使うか?といったことが問題になったりしました。
音楽におけるピアノと鉛筆を対称させるなら、この場合、鉛筆はある意味それまでよりも楽だったかもわかりません。
毛筆しかなかった頃は、それを使う事が当たり前だったからです。
毛筆と鉛筆、双方、身体に求められることはかなり違う様に思います。
この求められる違い、毛筆の使い方によって開発される身体のあり方が、かってこの国の競争力となる何かしらを作り、担保していたのではないか!
今、そんなことを思ったりしているのです。
残念ながら、現状はというと寂しい限りという事になるのですが、昔々、小学校などで出会った事柄の意味の大きさを今、思います。
※画像は、台風の影響が去った8日夕方の空の様子です。
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