使わなくなった炉壇をいただき、 我が家に茶室らしきものが出来たことはすでに書きました 引きあうようにして、今度は茶釜を 縁というのは不思議なもの 良い風情 先日、アメリカからのお客様を案内して高梁・頼久寺を訪れたおり ご住職の御好意で、お茶を点てていただくと共に その場での茶道講座となりました 日本文化、通訳してくださる方の言葉に「あぁ、(こんな単語を)こんなふうに使うのか、、、」と、教えられることしきりでした 庭の砂の模様 「季節によって変わるのですか?」というアメリカからの客人の質問に感心してみたり (隙なくデザインされたそれは、基本的に変えることはないそうです) コミュニケーションということを思いました さて、平田オリザさんの話の中には「人格をタマネギに例える話」なんてのもあって <タマネギはどこまでが皮でどこからがタマネギということはない、皮の総体がタマネギ 同様に我々は生きていく中で様々な仮面を被っていて、その総体が人格> <日常生活において「演じる」ということを自分を偽るといったイメージで捉えるために苦しく感じる日本人> <誰もがそれぞれの場でなにかしらを演じている・その場に応じて自分の役割を演じ分けている> <「いい子を演じるのに疲れた」という子供に「本当の自分をみつけなさい」というのは、大人の欺瞞:演じるのに疲れない子を育てるのが教育の役割><いろんな場面において、いろんな役割を演じ分けられるようになる。それが大人になるということ。>と続く、週刊文春の対談記事(12月13日号 阿川佐和子のこの人に会いたい ) 最後の部分で、おおッ!てなりました。 記事では、平田オリザさんが感じたこの国の演劇、台詞への違和感についても触れられており、その原因として「明治日本が西洋演劇の輸入の仕方に失敗したから・・・・」と続きます。そして、「普通に喋ることとは?」とそもそものはじまりにもどって探す試み、、 <哲学は異なる概念をすり合わせるためのものだった> <演劇は異なる感性をすり合わせるためのものだった> <演劇というコミュニケーションの手段が共同体を支え、民主制を支えた> 「ダイアローグ(対話)が必要なとき、必ず演劇の必要性はます」 ※ 週刊文春の対談記事(12月1...