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4月, 2011の投稿を表示しています

凄い雨、風でした

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気温は、夏を思わす程上がり 凄い雨と風でした 昼まではよい天気だったのに 「学び」について、自分の思いを整理してくれる様な言葉との出会いをいただいた。昔の方々のなんと深い思考、、、 日本人についての考察、自然との関係の作り方 結局、今回の震災のことと結びつけて考えてしまう 良い所も悪い所も  それにしても次から次に「問い」は出て来る やっと満開になった山桜 この雨風であっという間に散りそうです

4月末に桜

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我が家の東側に自生した桜 一昨年より花を着ける様になりました。 細い花びらが特徴的です。 画像は先ほど撮影しました。 開花はまだまだこれからが本番といったところです。 北側に自生した桜 葉と共に花を咲かせます。 明後日あたりが満開といったところでしょうか。 これは西の道路脇に植えた八重桜 しばらくは花をつけなかったのですが、 数年前より花が毎年増え多く咲かせる様になりました。 ここ数日が満開でしょう。 今年は桜の開花が遅かったように思います。

地面

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イカリソウがいつものように シュンランもいつものように こんな色のスミレははじめて!

「日本人の座り方」

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谷田部英正さんの著作「日本人の座り方」が新聞に紹介されていた 引用※<正座は「端座」と呼ばれた武家儀礼に由来し、明治以降の礼法教育に組み込まれ、軍国思想へとからめ捕られてゆくさまも浮き彫りにする> 日本の伝統的身体技法を調べる中で出会ったことが書かれているとか、、、 気になる本2(未読です。読みたいな〜と今、思っている所)

自己浄化

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美術鑑賞という言葉がある 作品自体を購入するまでにはいたらなくても 日常的に美術館に行くとか 好きな作家、興味のある作家の画集や、写真集を手に入れるとか テレビや書籍でそういったテーマがあるときには興味をもって見るとか そういった話を聞き 経済の都合によってだけではない思いの存在 そういった方々が、それなりの数、世の中にはいるのだと思うことで こういった世界に関わって生きる事が けっして何の役にもたたないことでは無いと、、、、 いくらかは、思える気がするのだけれど、 特に、今回の震災のようなことがあると、 よけいに必要の無い存在ではないかというようなことをつい考えてしまう。 ビジュアルな存在が社会に意味を持つことは広告などでの利用を見ればあきらかであるように、疑うことも無い。 一方、古いメディアが持っている「何か」「意味」といったことを思う。 新聞で朽木ゆり子著「ハウス・オブ・ヤマナカ」という本の書評を読んだのだけれど、その中の一文 ※引用<美術鑑賞は、猛烈に蓄財に励む上流層が、自己浄化の必須カリキュラムとしてきた> という部分が目に留まった。 「自己浄化」という言葉。 気になる本1(未読です。読みたいな〜と今、思っている所)

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体に危険だとわかっていて放射性物質を身近に置く人はいないでしょう。 またそうしたそばに好んで居たいとも思わないでしょう。 だから、遠くに離したり、何重にも危険を回避する為の仕組みを作るのですね。 そもそも危険なものを使うのは、何かしらメリットがあるから。 危険とそのメリットを秤にかけて使っているのでしょう。 その危険がどの程度か、本当に測って来たのでしょうか? そんなにメリットがあるのでしょうか? 地球上の空気は繋がっています 海も繋がっています。ということは水も繋がっているのです。 空気が無ければ死んでしまいます。 みずが無ければやはり死んでしまいます。 遠いから大丈夫という話ではありません。 人間が生きて行く上で必要欠くべからざる存在なら、それは人間自身の体と考えてよい存在かもわかりません。 「自分自身も自然の一部、そして自然も自分自身の体の一部」 いくら遠くても、そしてどんな姿、どんな存在であろうと何らかの形で関係している。宇宙船地球号なんて言葉がありましたが、これだって人間と地球を分けていますよね。 分けられない「体」、どちらが主でどちらが従と言えない関係。 「環境」って、なんだか都合の良い言葉に聞こえて来ます。 分けられない存在、「体」と考えたほうが良いのかもわかりません。 そんなことをふと思うのです。

開花3

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地面に目を移せば、小さな花々がたくさん。 水仙もまだまだいろんな種類が咲いています。 上記画像は「エゴの木」です。 柔らかい緑色

開花2

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山桜、八重の桜は、まだまだですが ソメイヨシノは立派に満開です。 上記の画像は、1本の木からピンクと白を同時に咲かせている梅です。 最後はユスラ梅。 いつもならもう少しずれて咲いているはずなのですが、、、、、 。

開花

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これほど一時にいろいろな植物が開花するとは! 今年はコブシも椿も桜も同時です。 鳥が運んで来たのか、我が家の裏に自生した姫コブシかコブシの木 いつの間にか背丈は4メートル程度になり、数年前より花を着ける様になりました。 今年はたくさん蕾を着けたはと思っていましたが、今、本当にたくさんの花をつけています。 お隣の庭に咲く椿。

鍵括弧付きの日本画

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2011年4月8日付け山陽新聞「言論」に、宗教学者の山折哲雄さんが3.11に対して「日本独自の風土考察」という文章を寄せていました。 その中で紹介されていた寺田寅彦が昭和10年頃に書いたエッセイ「天災と国防」と「日本人の自然観」からの論考、(記事よりの引用)※<科学は自然にたいする反逆を断念し、自然に順応するための経験的な知識を蓄積することで形成された。そしてそこにこそ日本人の科学や学問の独自性があった>と読み解き、また<日本人の自然への随順、風土への適応という態度のなかに、仏教の無常観と通ずるものを見いだしていた。地震や風水による災害をくぐりぬけることで「天然の無常」という感覚が作り上げられたとしている>※(引用終わり)を読んでいて、確かに震災直後に海外から寄せられた反応、この国の人々の持つ秩序、モラルに満ちた行動への賞賛の答えのように感じたのです。海外の方々にとっては大変特別な姿に見えた、感じられた、、、、一方、その後の原発へのこの国の対応については、批判的なモノが多くなっているそうですが、、、、。 ふと、以下記事への ボチいこ のタニヨシ先生のコメントへの答えに少し触れたような気がしました。 「前衛」について 記事では、寺田寅彦を<日本の独自の風土を、数千年という長い単位で考えていた>また、<西欧と比較する事によって日本の自然の特質を明らかにしようとした>と、紹介していました。 「日本画」として行う意味とは、 明示的な「西洋」との距離の取り方であり、単なる受動ではなく、相対化する対象を明確にしながら「自分たちだったらこんな風にやるよ」と、自分たちの特質(日本の文化)を検証する意識の強いものでは無かったのか?と思ったのです。 だからこそ、見るべきは、何を「残した」のか!、検証の中で何を発見したのか?が、大切なのではないかと思うのです。 震災直後、海外から被災した方々、秩序ある日本人へ寄せられた感嘆の声。同じ日本人として、何処かで誇らしく思う一方、その後次第にあきらかになる原発についてのニュースを見る度、自然に対する謙虚さを失い、歴史に学ぶことも出来ないままに原子力発電所という巨大なシステムを動かすのは、はたして寺田寅彦が思いを馳せた同じこの国に暮らす人々なのでしょうか?

ピンク

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山も急に暖かくなりました 日中は動けば汗ばむ程です 至る所で花が咲き、何種類もの鳥の鳴き声が聞こえて来ます いまだ堅い蕾がほとんどの椿もあれば、一方で満開を迎えた株もあるという状況 我が家のソメイヨシノは未だ一分といったところです 岡山市街地の桜は満開宣言 昨日、街に出かけるおり、吉備新線からのまだグレーの濃い山並みに、桜の花の白い色が印象的でした。 水仙はまだまだ咲いています。 そういえば、レンギョウが咲き始めました。 昨年もらって来た黒いパンジーが、我が家の北側にあるコブシが今、満開です ジャガイモの芽が畑の表面に 紫陽花の新芽、濃い紫から淡い緑が現れました。 そんな中、目に飛び込んで来たピンクです。

暖かな日

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金曜日の日中は本当に暖かく、この山にも春の訪れを充分実感させてくれるものでした。 梅、椿、山茶花、水仙、サクランボ、コブシ、パンジー、、、 歩く道すがら、今が盛りと咲く花が次々に目に飛び込んできます。 我が家を訪れる野鳥も一時に比べ、種類、数とも増えました。 人懐っこい鳥達、ベランダの手すりにも平気で寄って来ます。 窓越しの一枚 つけたテレビのチャンネル全てが震災関連という状況は過ぎたようですが、 伝えられる原発の状況は未だ厳しい事に変わりないようで はたしてこれからどのように推移していくのか 人間が作り出した危機 人間は「環境」という言葉を作り、自分自身とそれを取り巻く存在という関係、考え方を作り出した。しかし、こうなってみてあらためて思う、決してそれぞれ個別に存在するのではないことを。